数値予報-その理論と実際-気象学のプロムナード3

はしがき

 1950年3月5日の深夜、プリンストン大学高級研究所のフォン・ノイマン(J.von Neumann)、 チャーニー(J.G.Charney)、 フョーールトフト(R.Fjor-toft)など6人の数学者と気象学者がかたずをのんで見守るなかで、アメリカのメリーランド州アバディーンにあった弾道研究所の電子計算機 ENIAC が、極めてゆっくりだが、リズミカルな音をたててカードを読みはじめた。世界で最初の数値予報が始まったのである。それから35日、電子計算機といっても、メモリーの数わずか20個という ENIAC を”なだめすかし”、しかも機械で出来ないところは人力で補うという方法を交え、まさに不眠不休の闘いのすえ、24時間予報2例が計算されたのである。1例を計算するのに、正味の電子計算機の使用時間は24時間であったという。
 それから31年、気象庁にわが国最初の大型電子計算機 IBM704 が導入され、数値予報がわが国の予報現場でルーチン的に行われるようになってからさえ22年が経過した。この間、数値予報の理論の発展と、電子計算機の性能の飛躍的な向上と相まって、予報モデルも大きく変わり、当初の最も簡単なバロトロピック・モデルから現在の非常に複雑なプリミティブ・モデルへと発展した。それにあわせて、数値予報によって予報現場に提供されるプロダクトも、最初の 500mb 面の高度のプログノが唯一という状況から、地上気圧、鉛直流、さらには降水量から雲量分布など直接天気予報に使える物理量のプログノへと改良されてきた。また、数値予報によって得られる予想値を統計的に処理することによって、降水量、最高・最低気温などを量的に予報する手法も開発され、もっともらしい天気予報文の作製まで計算機で行わせる試みまでなされる時代になってきた。
 このようななかで、数値予報によって提供されるプロダクトは予報の現揚には不可欠なものとなり、予報システムもほとんど数値予報的手法で作られたプログノに依存するといっても過言ではないような状態に変わってきた。一方、実況の天気図だけでなく、予想天気図までが毎日のテレビの画面や新聞紙上にあらわれるようになり、天気予報、ひいては数値予報に対する国民の関心も高まってきた。
しかし、その反面、数値予報が発展してきた理論的背景を忘れ、その適用限界を無視して、数値予報のプロダクトを”機械的”に利用する風潮――スネルマン(L.W.Snellman)が警告した”気象学的がん”のような症状――も生れてきている。
 著者はかつて「数値予報グループ」の機関紙 “OMEGA” に、「気象学の発展、特にその中でも数値予報の発展の歴史をみて、それが弁証法の法則に従って発展してきていることを痛感した」と書いたことがある。そしてその例として、リチャードソン(L。F。Richardson)のプリミティブ方程式を使った最初の数値予報の失敗から、この方式を「否定」して準地衡風近似のモデルへ発展し、さらにこれを「否定」して再びプリミティブ・モデルへと発展してきた数値予報の歴史は、まさに弁証法の「否定の否定の法則」あるいは「事物の螺旋状の発展」の概念そのものではないかと述べ、不可知論と決定論、量的変化と質的変化、量から質への転化、有効性と限界性などの観点から数値予報の発展の歴史をあとづけた。もちろん、気象学は自然現象を対象としたものであり、その発展は法則にのっとったものであるから、ことさら弁証法の概念などは使わなくてもよいし、また教条的にそのような概念を使うことはかえって大きな誤りをおかすおそれもある。しかし、気象学の研究が多岐にわたり、専門化するにつれて、考え方の上でいろいろの混乱や誤りが出てくるのは避けられない。前述の”気象学的がん”もこのような中で生れてきたものと思われる。したがって、現在ほど数値予報の理論と実際を正しくつかみ、その有効性と限界性を統一的に理解し、その成果を正しく利用する必要が出てきた時はないと考える。
 本書はこのような観点で、気象大学校の昭和52年度専攻科予報課程の講義を行った際に作ったレジメをもとに、1978年から1979年にかけて8回にわたって、気象庁発行の「測候時報」に連載した同名の小論を整理、補正したものである。したがって、もともと気象庁の現場に働く予報担当者を対象にして書いたものであるから、一般の読者にはなじみのうすい部分もあるかも知れない。しかし、気象庁の現揚でいま何が起こっているか、その理論的背景は何かなどは、ある程度理解できるように、できるだけ平易に記述するよう心掛けたつもりである。その反面、主として現揚の予報担当者を対象にしたので、厳密さという点では”舌足らず”の部分もあると思う。しかし、本質的と思われる部分には特に重点を置いて記述したつもりであるが、紙数の関係で当初の原稿をかなり圧縮せざるを得なかったため説明不足の点も少なくないと思われる。したがって、その部分は他の専門書を参考にして頂きたいと思う。いずれにしろ、本書が数値予報の理論と実際を理解する上で幾分でもお役に立てば幸いである。
 本書をまとめるに当り、気象庁電子計算室発行の一連の「電子計算室報告、別冊」および「数値予報解説資料」、日本気象学会発行の気象研究ノート 第110号「気象力学に用いられる数値計算法」、同じく気象研究ノート 134号「数値予報(上)、(下)」およびメッシンガー・荒川昭夫著の「大気モデルに用いられる数値的手法」(F.Mesinger and A.Arakawa: Numerical methods used in atmospheric models)などを参照した。ここにこれらの著者に対して厚く感謝の意を表する次第である。

     1981年11月

著者

目次

はしがき
1章 数値予報の歴史とその理論的背景
1.1 数値予報の原理
1.2 リチャードソンの失敗
1.3 長波の発見
1.4 大気中に含まれる波
1.5 気象現象とノイズ
1.6 スケールの概念
1.7 長波の特性と運動方程式の各項の大きさ
1.8 長波の予報に適した方程式系
1.9 準地衡風近似のモデルとノイズの除去
1.10 エネルギー保存則とじょう乱の発達,衰弱
1.11 準地衡風近似モデルのエネルギー保存則
1.12 じょう乱の構造―ω方程式
1.13 傾圧不安定
2章 予報モデルの変遷
2.1 バロトロピック・モデル
2.2 バランス・バロトロピック・モデル
2.3 う ず 度
2.4 超長波の問題
2.5 準地衡風バロクリニック・モデル
2.6 鉛 直 流
2.7 準地衡風モデルから非地衡風モデルへ
(1) 高,低気圧の非対称的発達 (2) 閉塞過程
2.8 非地衡風モデルへの二つの道
(1) 非地衡風バランス・モデル (2) プリミティブ・モデル
2.9 非地衡風バランス・モデル
3章 プリミティブ・モデル
3.1 慣性重力波の分散性と地衡風調節
3.2 積雲対流のパラメタリゼ一ション
(1) 対流調節86 (2) 塔状積雲モデル
(3) 積雲群モデル
3.3 境界層のパラメタリゼーション
(1) 接地層 (2) エクマン境界層
(3) モデルでの境界層の取り扱い
3.4 ルーチン・モデルの説明
(1) 6L‐FLM105 (2) 4L‐NHM
4章 数値計算上の諸問題
4.1 運動方程式の数値解法の種類
(1) 格子点法 (2) ラグランジュ法
(3) スペクトル法 (4) 有限要素法
4.2 差分方程式の性質
(1) 収束性117 (2) 安定性
4.3 時間スキームの種類
4.4 空間差分の問題点
4.5 計算時間を節約する時間スキーム
(1) スプリッティングあるいはマルチェック法
(2) 経済的なエクスプリシット・スキーム
(3) セミ・インプリシット・スキーム
4.6 エリアシングの誤差と非線型不安定
4.7 非線型不安定の回避
4.8 保存量,特にエンストロフィ保存の重要性
4.9 微分を差分に直す際の基本的な観点
5章 数値予報と天気予報
5.1 数値予報の精度
5.2 天気予報とは
5.3 メソ・モデル
5.4 統計的な翻訳
5.5 確率予報
5.6 プログノの修正一マン・マシン・ミックス
5.7 予報官の役割
6章 客観解析とイニシャリゼーション
6.1 客観解析とは
6.2 客観解析の手順
6.3 客観解析の二つの行き方
6.4 多項式法
6.5 修 正 法
6.6 最適内挿法
6.7 変 分 法
6.8 スペクトル法
6.9 4次元解析
7章 予報可能性と延長予報
7.1 予報可能性
7.2 予報可能性の評価
7.3 予報可能性評価の種々の方法
(1) 類似天気図による方法 (2) 力学的な方法
(3) 統計・力学的方法 (4) 確率・力学的方法
7.4 予報可能性評価の方法に対する批判
7.5 中期予報の現状
7.6 実際的な予報可能性
7.7 延長予報の発展をめざして
(1) 初期値の問題 (2) 全球の表現
(3) 大規模な山岳の影響 (4) 物理過程
あとがき
付 録
Ⅰ 種々の時間スキームの安定性
A 二つの時間レベルを用いる方法
B 三つの時間レベルを用いる方法
Ⅱ 摩擦項を含んだ方程式の時間スキーム
参考文献

奥付

気象学のプロムナード3
数値予報一その理論と実際一     
定価3,500円
昭和56年12月25日 初版発行
昭和62年1月10日 3版発行                         
著 者 増田 善信
発行所 株式会社 東京堂出版
ISBN4-490-20058-7