(敬称略・順不同)
酸性雨調査研究会 関根一昭
増田先生の偉業を再度反芻し、増田先生に心より感謝とお礼を申し上げます。
朝日新聞論説委員 前田史郎
「信念に生きた101年」の出版、おめでとうございます。
黒い雨の調査のため自ら現地に入り、被爆者の声に耳を傾けられた増田先生は、まさに「行動する科学者」でした。高名なのに腰が低く、親しみやすい、気遣いの人でもありました。本の出版によって、ご功績が広く伝わり、末永く語り継がれることは喜ばしい限りです。暖かく、さわやかな笑顔を思い出しつつ、これからは本を片手に、先生の数々の名言や冗談話を思い出し、勇気をもらいます。
出版に骨折られたみなさまに心より感謝いたします。
酸性雨調査研究会・都立産業技術高専名誉教授 吉田喜一
20年以上前(確か12月23日でした)航空高専の校庭で、大気温度の逆転現象を、徹夜で学生諸君と測定したことがありました。
通常、大気温度は上層に行くにしたがって下がるのですが、冬の無風の時は、放射冷却現象もあって、上層の温度が上がり、対流が起こらなくなります。浮遊慮粒子状物質(発がん性物質、SPM)が拡散されず、ぜんそくや、がんの原因になります。伊瀬氏のご助言で、大気中の浮遊粒子状物質の連続測定装置を設計・製作し、温度計とともに直径3メートルのバルーンに取り付け、実験室にあったウインチを使って、20メートルごとに240メートルまで上げて測定しました。これらの結果と考察は卒業論文の一部となり、機械学会や環境学会で発表しました。
また増田先生他とともに伺った、チェコでの環境測定や市民団体との交流も楽しい思い出です。
(狛江)原発と気候危機を考える会 嶋田 紅
以前あった狛江の市民センターを考える会、放射能を測る会等でご一緒させていただき、尊敬しておりました。ご葬儀には伺えなかったので、今回は是非、参加させていただけたらと思っております。出版に向けてのご尽力に敬意を表します。
日本反核法律家協会会長 非核の政府を求める会 弁護士 大久保賢一
増田さんが亡くなった。101歳だった。私の母は102歳だ。まだ、話をしている。増田さんとも、つい最近まで、「非核の政府を求める会」の常任世話人会で、画面越しでしあったけれど、議論をしていた。100歳を超える人たちと話ができることはうれしいことだ。けれども、増田さんとの別れは来たのだ。
ところで、増田さんと私の共通のフィールドは「非核の政府を求める会」だった。この会は、1986年に設立された核兵器廃絶と非核政策の実現を目指す非政府組織(NGO)だ。広島・長崎の「被爆の実相」を踏まえ、日本が「唯一の戦争被爆国」として果たすべき役割を強く意識しながら活動している。特に、最近は、日本政府に核兵器禁止条約に署名・批准することを強く訴えている。
この会での増田さんと私のかかわりをAIに聞いたら、こんな答えが返ってきた。
増田善信さんは気象学者としての専門性を活かし、核問題に科学的視点からも関与。大久保賢一さんは弁護士として、憲法9条や核兵器禁止条約との関係を法的に論じる活動を展開しています。
この会は、核兵器廃絶を願う市民・専門家・法律家・被爆者などが連携し、草の根から政策転換を促す力強い運動体です。まさに「核のない未来」を信じて行動する人々の集まりですね。
AIは、こんな風に、会のことも増田さんと私のかかわりも知っているのだ。増田さんの遺志を継ぎながら「核兵器も戦争もない世界」を創るための営みを続けようと決意している。
福岡気象交友会会長 福田佳男
増田善信さんの伝記「気象学者増田善信 信念に生きた101年」の発刊を心よりお喜び申し上げます。
私が増田さんに初めてお会いした24歳の時から85歳の現在に至るまで、増田さんは私にとって人生の師ともいえる存在でした。
気象学と気象事業とりわけ今日の天気予報の発展にとって、その基礎を築かれた増田さんの功績は偉大なものがあります。それは大著「数値予報」に著されています。また、気象庁退職後に書かれた「異常気象学入門」は、地球温暖化と異常気象現象との関連について、そのメカニズムを提示された点で画期的でした。
増田さんの研究生活は「象牙の塔」に閉じこもらず、数値予報の現場で予報官として理論と実践を見事に両立されました。その傍ら、全気象労働組合の委員長を2期6年にわたり務められ、気象労働者の処遇改善に尽力されました。退職後は反核平和運動に心血を注がれ、「増田雨域」の提示が黒い雨裁判判決で有力な証拠となり、原告勝訴に貢献しました。
増田さんの101年の生涯は、労働者と被爆者など社会的弱者のために捧げられた生涯だったと思います。折しも増田さんが亡くなられた翌日、国会では、軍事研究に抵抗する日本学術会議を解体し、学問と科学者を戦争準備に動員しようとする法律が成立しました。かつて、気象学会員の選挙で日本学術会議会員を2期務められた増田さんは、どんな思いで国会審議を見守っておられたことでしょう。
私は増田さんの遺志を受け継ぎ、日本が2度と戦争という愚かな道に踏み込まないよう、微力を尽くす所存です。
黒い雨弁護団事務局長 弁護士 竹森雅泰
「『黒い雨』訴訟」 (集英社新書)の著者、小山美砂さんによる「気象学者 増田善信―信念に生きた101年」の公刊、誠におめでとうございます。
「黒い雨訴訟」本の著者が増田先生の生涯を伝えることだけをみても、いかに先生が、黒い雨訴訟に大きな役割を果たしたかがわかります。
2021年7月、「黒い雨」訴訟・広島高裁判決で増田雨域を含む3つの降雨域の信用性が認められました。34年目にしてやっと真実が認められたのです。厚生労働省は2022年4月から黒い雨被害者を被爆者と認める新基準の運用を開始し、現在、約7500名が新たに黒い雨による被爆者と認定されています。
増田先生の真摯な反省と真実を追求する姿勢がなければ、広島における黒い雨被害の実相が明らかになることはなかったと思います。増田先生は、生前、広島地裁で争われている第2次「黒い雨」訴訟について、自身の増田雨域の調査が不十分であることを認め、更なる調査の必要性を訴えておられました。
「黒い雨」訴訟弁護団は、増田先生の遺志を継いで、黒い雨被害の実相を訴え続けていく所存です。皆様におかれましては、今後とも第2次「黒い雨」訴訟へ関心と支援をお願いいたします。
酸性雨調査研究会 田中弘美
雨研の旅(現地活動)では誰よりも楽しそうなお顔でした。学習会ではどんな質問にも真摯に答え、権威や権力とは一線を画し、真実と正義をもとめる増田先生の姿は、昔も今も、そしてこれからも私たちの北極星です。
黒い雨動画制作チーム 佐藤国仁
増田先生にはたくさんの顔がありました。
気象分野の数値予報の基礎研究、黒い雨の「増田雨域」研究に取り組んだ研究者としての顔は良く知られています。そしてもちろんご家庭での顔がありました、すごく慕われていたように聞いています。
私が強く感じるもう一つの顔は組織者としての顔です。この役割は人格のひとつの発露であり、その意味では人格者と表現される特徴もいえるでしょう。
私が数えられるだけで、次の場面がすぐに浮かびます。
・気象数値予報研究においてNPグループの実質的リーダー
・全気象労働組合の委員長を前期3年、後期3年を務めたこと。特記するべきは非専従として現業の仕事も十二分の成果を挙げつつ、労組委員長として日本の津々浦々までの観測員の労働環境の改善を果たし続けたこと
・黒い雨宇田雨域理論への盲従を糾弾され、たくさんの方々の支援を得てあらたな雨域の調査に取り組んだこと
・狛江市長選に出馬した。惜しくも次点だったが市政への住民の厳しい芽を育て、その先の選挙にて新たな市長誕生の道を切り開いたこと
・酸性雨調査研究会の複数代表として、国内外の調査、研究活動を指導した
・日本学術会議が推薦した会員候補のうち6名を政府が任命しなかった事件に対して、オンライン署名「Change.org」を自ら開設、6万人超の署名を集め内閣府に提出。2021年、97歳。
すべて自らの発議に従う活動であり、その意思をたくさんの方々が共有し拡大した結果でした。だれもが増田さんの笑顔を思い出しています。
元狛江市長 矢野ゆたか
増田善信さんが亡くなられてもう3か月が経ちました。メディアでもその功績を報道していますが、戦時中に戦争遂行に関わったことを悔やみ、戦後80年間、反核平和の先頭に立ち、まちづくりに熱心に取り組まれ、政治社会の変革を最後まで追求された善信さんの姿を、思い起こしています。
いま自公政権が少数派に陥り、その一方で極右・排外主義や軍事優先の主張がはびこっています。狛江でも、長年市民と行政とが手を携え発展させてきた協働のまちづくりが後退しています。国レベルでも、狛江でも、政治が重要な岐路の位置に、私たちは立っているのではないでしょうか。
このような時、善信さんだったらどうするだろうか。お話が的を射ているだけでなく、それを貫き、最後まで行動してきた善信さんの生き様は、私たちの到底及ぶところではありません。ただ同じようには出来ないとしても、自分らしく生きていくうえで、学び見習うべきことは数多くあります。
「偲ぶ会」にご出席の皆様さん。善信さんの思いや実践を受け止め、意気高くこの難局に立ち向かっていこうではありませんか。それが善信さんの遺志を継ぎ、故人の願いに応えることだと信じています。
結びに、敏恵さんには健康に留意され、啓子さんやお身内の皆さんと元気に過ごされることを、心から祈念いたします。そしてこの集いを準備下さった権上かおるさん始め実行委員会の皆さんに御礼申し上げ、私からのメッセージといたします。 (ご欠席)
酸性雨調査研究会 岸強志
増田さんに最も尊敬の念を抱くのは、101歳で命尽きる直前まで精力的な科学者・研究者であり社会変革者だったことです。様々な功績のあるなかで「核の冬」につながる発見をされていたことに私は注目しています。人類生存のために重要な研究であるからです。数年前に黒い雨の増田雨域のことについてお聞きしたいことがあり電話をさせてもらったことがあるのですが、その後もお話をする機会があり、病気のこと、自分の希望や社会のあり方等について聞かせていただきました。最期まで「代のため、人のため」の情熱の人であったと思います。
小松電機産業 人間自然科学研究所 会長兼社長 小松昭夫/ラジオパーソナリティ 浜菜みやこ
増田善信博士には、2023年8月6日、13日、20日の特別な日に、小松電機産業 人間自然科学研究所 小松昭夫会長兼社長プロデュースのラジオ「おはようサンデー~健康・環境・平和はひとつ~」に、中川十郎先生のご縁で、3週連続でゲスト出演頂き、終戦間際に勤務されていた島根県大社基地での気象少尉時代の貴重なお話を、全国120局のコミュティFM局とインターネッとを通じて全国世界のリスナーさんに届けさせて頂きました。
ご出演後も、ラジオネーム「増田善信100歳」と、リスナーのお一人として、毎週のように番組にメッセージを投稿くださり、100歳になられても強い使命を持って、原爆、水爆被爆者の救済・平和活動をされていることに多くのリスナーさんが感銘を受けていました。
増田善信博士の恒久平和への念いを実現すべく、人間自然科学研究所「対立の文明から共生の文化へ」「健康 環境 平和はひとつ」の活動を、これからも続けて参ります。
ありがとうございました。
日本ビジネスインテリジェンス協会理事長 中川十郎
故増田善信先生とのご縁は、1992年4月に喜多見から狛江2丁目に転居した際、近所の池田さんに紹介されて以来33年間、公私ともにご指導を頂き大変お世話になった。
かつて狛江市の会場で先生の「原発、気象、特攻隊、平和」のご講演を拝聴し、その平和への願いに強い感銘を受けた。「赤旗」の購読を勧められ、購読を始めた。毎月末集金に拙宅まで歩いてお越しいただき、毎度恐縮した。お都合の良い時は居間で先生の好物のコヒー、赤ワインをともにしながら、先生の博識の気象学、環境問題、日本の劣化する政治の批判に耳を傾けた。ある時、先生の長寿の秘訣をお聞きした。「週に3~4回夕食に肉料理を取っている。タンパク質は健康に有用なようである。それと赤ワインを欠かさない」とのことであった。奥様が栄養士をしておられたとかで、妻のおかげも大きいと感謝しておられた。
先生には私が30数年継続している「日本ビジネスインテリジェンス協会」特別名誉顧問をお願いし、「環境、平和問題」に関し、素晴らしいご講演をいただいた。
ZOOMを含め約90名がご高齢にもかかわらず名講演に強い感銘を受けた。このご講演の実現には、権上さんに大変お世話になった。増田善信・理学博士の在りし日をしのび、遥かにご冥福をお祈りいたします。安らかにお休みください。
読売新聞編集委員 佐藤淳
増田善信さんは、「科学」と「正義」を揺るぎない軸足にして、困難な時代を駆け抜けた気象学者でした。大切な価値観をないがしろにする勢力が世界にはびこり始めた現代にこそ、必要な方だったと思います。亡くなられたこと、残念でなりません。
初めてお目にかかった時、増田さんはすでに89歳でしたが、情熱を傾けた研究に関する記憶は鮮明でした。「今でも毎日、天気図を見ています」と語る老気象学者の気迫に圧倒されました。
研究の原点は1953年に東京大学や気象研究所の研究者を中心に組織した「数値予報グルーブ」にあります。現在の精密な天気予報の基礎をつくった精鋭たちの集まりには、後に気候変動予測に対する貢献でノーベル物理学賞を受賞する眞鍋淑郎さん始め、そうそうたる顔ぶれがそろっていました。
増田さんは気象研で、最先端のコンピューターを使って天気予報を精緻化する研究に没頭し、予報水準を飛躍的に高めました。防災インフラの整備が十分ではなく、1000人単位の死者が出る風水害もあった時代です。増田さんたちの研究は文字通り人の命を救う研究でした。
研究の傍ら、核戦争や気候変動に関する正しい知見を広めることにも力を注いだ。問題をどう解決していくかを真剣に考え、行動しました。生涯をかけた核兵器廃絶の取り組みについて、増田さんは「核戦争は人間がおこすものであり、自然現象ではない。人間が作った核兵器を人間が廃棄できないはずがない」と著書に記している。底流には人間に対する深い信頼があったと思います。
戦争や異常気象で理不尽に人の命が奪われる「不正義」の流れを変える必要がある。増田さんの世代が築いた遺産はきっと反転の土台になります。増田さん、どうか安らかにお眠りください。
物理学者(「311子ども甲状腺がん裁判」にも参画) 黒川眞一
私は、つくばに住む、retire した物理学者です。1945年6月22日に中国黒竜江省チチハルで生まれ、今80歳です。私は自分が直接教えを受けた恩師だけに先生という言葉を使うことに決めていますが、増田善信さんを先生とお呼びいたします。
先生とは、権上かおるさんを仲介して、何回もmailでやりとりをしておりましたが、先生に直接お会いしたことはありません。それなのに、なぜ先生とおよびするかというと、先生が、科学者はどう生きなければならないかを人生全部をかけてお教えくださったと思うからです。そして、先生は科学者としても超一流の方です。 先生は、今でも私のそばにいてお教えくださっているように思います。
沖縄より宮城邦昌
本日は、増田善信さんがご逝去され132日に当たります。そして『気象学者 増田善信―信念に生きた101年』の出版を祝い、増田善信(以降ゼンシンさんと称する)先輩の業績を偲びたいと思います。
巷では裏金問題で議席を減らした自民党単独では、国政維持が困難となりましたが、これを補完する一部野党が癒着し、国民無視の政治が危惧されます。また自然界では寒露すぎても暑い日が続き、夏日日数が全国的に更新されるなど、地球温暖化が心配されます。そのような中で沖縄(宮古島市伊良部島)では、先日サシバの渡りが確認されたとマスコミ報道され、季節は先人たちの記録道理にめぐりくる事を実感しする一コマです。
本日は、ゼンシンさんの出版記念会と偲ぶ会ですので、僕とゼンシンさんとの関りについて話したいと思います。
僕は1967年11月に、八重山気象台(現石垣島地方気象台)に採用され、12月5日には創立70周年記念日をむかえました。
当日、瀬名波長宣(第八代所長)が健在で、「岩崎卓爾の業績と自然を観る眼」と題する記念公演があり、若い職員を激励しました。
そのなかで、自己紹介に続き岩崎卓爾(第二代)と正木任(東京研修の帰途、乗船していた高千穂丸撃沈死)の業績を聴講し、先輩等の自然観察の方法をひも解いたのです。
その関係で、時間があれば石垣島を始め八重山諸島の島々を巡り動植物や地形などの自然観察に熱中していました。
そのような時期に1972年の沖縄の日本復帰が決まり、当時全気象労働組合委員長のゼンシンさんが、オルグに石垣島を初めて訪れしたが、上記の様に当時の僕は、労働組合に興味がありませんでしたので、ゼンシンさんのオルグに参加しませんでした。
後日先輩にゼンシンさんのオルグの状況をうかがったところ、オルグのまえに数値予報の公演をし、つづいて沖縄復帰に向けた労働組合の取り組みにについて「沖縄は、復帰しても米軍基地が残り、そこから派生する諸問題を解決するために、沖縄で結集し頑張ってほしい、職場要求などの課題については、全気象が全面的に支援し解決する旨」とのことでした。
そして、僕は沖縄復帰(1972年5月15日)を迎え、僕は那覇航空測候所通信課に配属されました。そして、1年後に管制気象課が新設されるとの事で、管制気象課に配置換えになり、そこに羽田から航空気象観測業務の指導に配属されていた久保田靖之先輩が管制気象課予報官として配置換えされ一緒に勤務をすることになり、久保田さんから労働組合について、役割と任務等について色々とご指導してもらいました。
本日の『信念に生きた101年』出版記念本127頁掲載の写真(北京科学シンポジュウム・・・)に、ゼンシンさんと通訳で同行した久保田さんが写っているのを見て大変懐かく思い、僕の人生を導いた二人の先輩を、何時までも心に秘めていきたいと思います。
そして、沖縄の教訓歌である「てぃんさぐぬ花」を、参加者一同でこの歌を共有し、人生行路がぶれないように羅針盤を大事にし、人生を謳歌したいと思います。(歌詞は、ネーネーズなどによる歌唱動画がYouTubeなど動画サイトに数多くアップされております。そちらをぜひご覧ください)
おわりに、気象会の多くの先輩たちは天国で集い、戦後80年を迎えた地球についてユンタク(おしゃべり)しながら、戦争する国への動きを危惧しながら、後輩たちを見守っている事と思い、ご冥福を祈りメッセージとします。
合掌 2025年10月19日 沖縄より宮城邦昌
日本原水爆被害者団体協議会 事務局長 濱住治郎
厚生労働省が2020年11月から始めた「黒い雨」検討会に、日本被団協は増田先生を推薦しました。検討会では、原爆由来の放射性物質を確認するため、気象や土壌の調査を行い、健康への影響が生じているかなどを検証しようという試みが、研究者による作業グループで行なわれたりしていました。
増田先生は、被爆者の残した手記を解析して被ばく実態を解明するように意見を述べました。この検討会は、数回会議が開かれましたが、会議直前に配布された多くの資料に目を通して、会議では一番に発言をされていました。真摯に穏やかに発言される増田先生に、委員のみなさんも一目置かれ、尊敬を集めていたように思います。検討会は、その後中断したまま今日に至っています。
また、先生が90歳の時に、私のすむ稲城市で増田雨域について講演をいただいたことがありますが、立ったままで1時間を超える講演をしてくださいました。そのことがきっかけで狛江市の平和のつどいの案内をしていただいたことを思いだしました。その後も元気に活躍されておりましたので、先生のように生きることができたらいいなと密かに思っていました。先生の長年にわたるご活躍に感謝を申し上げますとともにご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。